千客万来!たくさんのお客様に喜んでもらうための秘策公開。
オープンして1ヶ月~2ヶ月も経てばオープンフィーバーなんてのは120%終焉を迎えます。
そこで色々、ない頭を絞って出来る限り身体を動かして広報宣伝に努めました。
その結果、少しずつではありますがお客様も増えてきてお店らしい雰囲気になってきました。
中でも本来のターゲット層だった25~35歳までの独身男女のお客様が著しく増えたのはほんとに嬉しかった。まさに狙いがばしっとハマった瞬間でした。
その頃から週に2回、3回とご来店くださるいわゆる常連さんと言われるお客様ができてきました。1人でご飯を食べに来てくれるメンズ、2~3人で飲みに来てくれるレディースたち。みんな個性豊でおもしろいメンバーばかり。
よくよく顔を合わせる常連さんたちが少しずつ話すようになってきたころ。
僕の思考回路は
『もっともっと常連さん同士を仲良くさせることはできないもんだろうか。。。』
『なんかおもしろいことやろうかな~。』
『店での飲み会もいいけどなんかたまには違うことしたいよな~。』
『そしてなによりいつもご飯やお酒を作ってばっかじゃなく僕も遊びたい!!笑』
なんてことを妄想する日々が続いた。
そんなときネットサーフィンをしていると。。。
コレだぁぁぁぁぁ!!!
2010年当時はまだ全国に数箇所しかなかったフォレストアドベンチャーという大人のためのアスレチックだ。
知らない人はこの動画を見れば楽しさが伝わると思う。
男ならなんだかワクワクするべ。笑
今となってはもうメジャーな施設かもしれないが当時はまだまだそれなに!?聞いたことあるけど行ったことはない!みたいな人が多かった。
もう即決!!
ここに行こう!!とにかくみんなを集めてここに行こう!!絶対なにか楽しいことが起こりそうな気がする。ニヤニヤ。
速攻でみんなに連絡。
<女性客>
僕『アスレチック興味ない!?』
女子A『えー別に身体とかも動かしたくない!』
女子B『外やし日焼けするやん!!』
僕『いやでも絶対楽しいから!お願い!!』
女子AB『そんなにべっちゃんが頼むなら行こうかな~』
<男性客>
僕『アスレチック興味ない!?』
男性A『いや俺インドアやし、休みの日は酒飲みたいしな~』
男性B『仕事入るかもしれんわ~』
僕『女子来るで。』
男性AB『行く!!!!』
僕『躊躇したからもうあかん!!』
男性AB『なんでねん~べっちゃん頼むわ~』
僕『じゃあ車出して!!』
男性AB『御意!!』
そんな感じのやりとりもありながら1週間くらいで25名ほどの参加者をGET!!ほんと愛すべき常連さんたち。
日程は夏のクソ暑い日に決行。
朝から集合し、天王寺からみんなで車に乗り合いで奈良県は山添村へ。
事前に僕が練りに練ったチーム編成を発表しいざ出陣。
子供の頃みんなが大好きだったターザンロープの超ロングバージョン。
みんなギャーギャー言いながらターザンしまくり。
めちゃくちゃ高いおそらく8mくらいあったんじゃないかと思う木の上。
無常にもここから飛べ!!というインストラクターの指示。
『俺、ムリムリ!!』
『びびってんちゃうぞ!!はよ飛べ!!』の大ブーイング!!
『あっあっあっ(ジャンプというよりむしろ落ちていった)ギャーーーーーー(泣)』
とにかくチーム内で協力したり助あったりしながら楽しく遊べました。
しかし、帰り道はみんなほんとヘトヘト。
車の中で爆睡する人もいて思ったよりシーンとして帰路に着きました。
お店についたのが18時ごろだったかな。
まぁみんな汗だくだし、着替えもないし、日焼けや体力使ってしんどいだろうからこのまま帰るだろうな~なんて思いながら一応、一応ですよ
『今からお店で二次会するけど来たい人は参加してくださいね~』
なんて声かけたら
全員参加!!笑
愛すべき常連さんたち。パート2。笑
僕も一緒に遊びに行ってたんでお店で出す料理なんか当然、仕込んでないので数人で近所にお買い物。
酒屋を呼んで大量の生ビール、酒、酒、酒。
食べ物がなくなったらもうみんな勝手に宅配ピザとかに電話してじゃんじゃん食べ物が届く。
とにかく飲んで歌って踊ってのどんちゃん騒ぎ。
こうして初めての野外イベントは夜遅くまで開催されました。
翌日、皆さんから多少の参加費はいただきましたがそんなのはへのツッパリにもならないほどの膨大な支払いがあったことにびっくりしたのは言うまでもありません。笑
でも全然いいんです。
いつもお店にきてくれる皆さんにたまには還元してもまったく問題ない。
それよりもこのイベントの後、今まで個々だった常連さんたちがお店で会ってもみんながアスレチックの話をしたり、常連さん同士が一緒にご来店してくれたりとそんな変化が起こり始めました。
残念ながらこのイベントがきっかけでカップルは生まれませんでしたけどね。笑
いや僕がお店をしていた8年間、お客様同士でカップルになったのは実はほんと片手で足りるほどだったんです。
その代わりといったらおかしいかもしれませんが常連さん同士がお店以外でも遊んだり、食事したり、旅行に行ったりととにかくめちゃくちゃ仲良かったのが僕のお店の特徴ですね。
やっぱりね。みんなでひとつのことをやったり、協力したり、助け合ったりするのは心が通うんですよ。これはいくつになっても変わらないと思います。学生時代や会社の友達だけじゃなく、よく行くお店の友達がいるってなんか素敵でしょ。
これをきっかけに多種多様なイベントを定期的に開催していくことになります。もちろん自分も楽しいからやるんですけどね。毎日、毎日、お店にこもってるのも飽きるんです。笑
とにかく、喜んでもらう秘訣は
どんな形、どんな手段であれ、お客様に楽しんでもらう!
お料理でも接客でもはたまたイベントでもなんでもいいからとにかくそれを考えて実行する。
後はなかなか勇気がいりますが
多少の経費は気にしない!!ということです。笑
次回は大阪のおばちゃん現る!!強烈なクレーマーが。。。みたいなお話を書きたいと思います。
誰でもわかる!飲食店の始め方。お客様はどこへ??
久し振りの飲食店のお話です。
前回はどこまで話したっけなぁなんて過去のブログを覗いていましたらお店のプレオープンでうかれぽんちになってた記事がありました。笑
今日はその続きを書いていこうと思います。
100名ほどのお客様がきてくれたプレオープンを終え、4月26日から通常営業を開始しましたがまだまだどんどんお客様が来てくれる。友達や知り合いや前職の先輩後輩、しかもすぐにゴールデンウィークに突入したので県外へ出てしまった友達もここぞとばかりに遊びに来てくれ、とにかくテンヤワンヤの大賑わい。
スゲーことが起こってるぞー!!!!!
フィーバーフィーバー!!
しかし。。。
この大フィーバーが一変するのです。
ゴールデンウィークを終え、5月下旬になると友達も一通り遊びに来てくれてあのフィーバー期間はどこへやら?
というか。。。
この世にお客様いるの!?
っていう状況に突入しました。汗
毎日、朝からオープンして夜中まで働いてるのに1日のお客様が数人。ここ仮にも大阪第3の都会、天王寺ですよね!?ここは小さな村の喫茶店でしたっけ??と思わず確認してしまうほど。
お散歩ついでにコーヒー飲みにきてくれたおばあちゃん。
空襲の恐ろしさや戦地から戻ってこなかったお兄さんの話、あの頃はみんな腹を空かせていたという戦争体験談を数時間、拝聴。
夕暮れ時にビールを一杯、引っ掛けに来たおじいちゃん。
昔、天王寺の駅前は闇市があってなー。韓国人が幅聞かせて色々やりよったんやけど日本のヤクザがしっかり市民を守ってくれたんや。昔の日本のヤクザは男気があってかっこよかったんやー。という時代錯誤のブラックトークを数時間、拝聴。
おばあちゃんの戦争体験談やおじいちゃんのブラックトークがどうとかではなく店としてどうなの。。。
いやどう考えてもこれはヤベー!!!!
いくらバカな僕でもこれはヤベー!!!って即座に気がつきました。笑
さぁそこからいろんな事を考えて実践していくんです。
まずは簡単な方法から。
チラシ配ろうぜー!!みたいなことになり手書きのチラシを作ってお店のプリンターで何百枚何千枚も印刷するわけ。もう普通の家庭用のプリンターだからぶっつぶれるんじゃねぇか?っていうほど熱くなってずっと動き続けてるの。
それを1人100枚の配布ノルマとし料理人の彼と配りまくろう!!って決めて撒きまくった。営業中にお客様がいないから1人はいつか来るかもしれないお客様を祈りながらお店に残って、もう1人が近所のマンションやアパートにポスティングしまくるわけです。もちろん店が終わった後も配りにいきます。
当然、二人ともポスティングなんて産まれてこのかたやったことありません。
でもやるしかないんです。店で待っててもお客様来てくれないし。
なので容赦なく『チラシお断り!』みたいに書いてるところにもとにかくお構い無しに突っ込んでました。あの頃はほんとすいませんでした。
一駅向こう二駅向こうとかいろんなところでチラシをポスティングしてるとやっぱりいるんですよね。同じようにポスティングしてる兄ちゃんが。
中でもピンクチラシの兄ちゃんとかもうねほんと神業的スピードでポストに突っ込んでいくわけ。スパンスパンスパン!!!みたいな感じで。
その技をじーっと見ながら兄ちゃんが出ていった後、実践してみるんですがチラシは落とすし、ポストに指は挟むし、入れたチラシはぐちゃぐちゃだし、モタモタしてたら管理人?みたいな人に注意されるし散々。
やはり一子相伝のピンクチラシのポスティング技術にはかないません。
そして何より1番気まずいのがそのポストの住人と鉢合わせたとき。
だってこいつ完全にピンクチラシとか不動産系のチラシ入れてるべ!!みたいな目で僕を睨み付けてくるし、
女性に『なにしてるんですか?やめてもらえますか!!』なんてすごい軽蔑の眼差しで言われる始末。
なかなかメンタルやられます。笑
しかし、2ヶ月くらいは続けましたね。
トータルで10000枚くらいは近隣に撒き散らしたんです。
他にもSNSを発信しようといろんなアカウントを作ったり、ブログを書いてみたり。
他のお店にショップカードをおいてもらうためにいろんなお店に営業行ったり。
駅前で客引きやったり。
あっ。中には一瞬で辞めたやつもあります。
自分の顔写真をデカデカと載せて『べっちゃんです。26歳。趣味は○○。○○が好きです。話すの大好きなんで気軽にお店にきてくださーい』なんてプロフィールを書いて店の前の看板に貼り付けて置いてたんです。
2週間くらいして、お昼過ぎに僕はなんかの用事でお店の前で立ってたんですよね。
すると下校中の女子高生たちがこそこそ僕を見て話してるんですよ。僕はなにか用事をするふりなんかして会話を聞いてると『あの看板の奴じゃない!?ほらいつも出てるやん!あれ、べっちゃんとか言う奴やって!ウケるわー!』みたいな会話をしながらケラケラ下校。
うん。
あまりにハズい。
僕の店の前は女子高の通学路になっていましたのでおそらく何百人という女子高生たちが毎日、通ります。そして彼女らは少なからず1度くらいは僕の写真付きプロフィールを目にしていたことでしょう。
おそらくですよ。おそらくですが、
『なぁなぁ学校行く途中になんか顔写真載せた変な看板あったやろ?』
『あー!!知ってる知ってる。』
『いや、私みたことないわー。』
『ほな帰り見てみよや!』
『これかー!!やばいなー(笑)』
みたいな会話が絶対、クラスでされていたはず。
自惚れているわけではありませんがそれぐらい目立つ超デカい写真とプロフィールでしたので。
ドオオオオオオオオン!!!!
そのまま用事をするふりをしながらその看板を即日、処分しました。笑
そんな感じでやれることをとにかくやっていこうという方針でガンガン進めていると
『チラシ見たから来ました!』
『この前来てよかったから友達連れてきました!』
『SNSで検索したら出てきたんで来てみました!』
みたいなお客様が来てくれるようになりました。
いやー。とにかく色々やってたことがようやく実を結び始めた瞬間でした。
おしまい。
じゃなくて!!!
あぁーーーー!!!
1番大事な話を忘れてました。
お客様が来なくてどうしようもなくてめちゃくちゃ悩んで血便や嘔吐が激しくなってなにしていいか考えまくって行き着いた究極の選択。
それが『掃除』だったんです。
会社で働いてた時もmoutonで働いてた時もなんとなく手が空いたり仕事が暇やったら掃除しよかー!というような雰囲気があり、特にそれを意識することもなく綺麗にしとくかー!みたいなノリで掃除していました。手を抜いていたわけではなく普通に綺麗にしてましたよ。
しかし、僕が行き着いたのはそんな掃除ではないんです。
皆さんご存じの方も多いと思います『餃子の王将』。王将フードサービスの当時の大東社長は革新的な戦略や人材の育て方などテレビにも度々取り上げられる超有名経営者。
そんな大東社長も自ら会社周辺の掃除を欠かさずやっていたそうです。
ビジネス書なんかでも経営者自ら掃除をするというエピソードは数多くあります。
掃除の大切さはわかってるつもりでした。
『経営者って掃除をするもんなんやな』と頭では知ってたんですがいざ自分が経営者になり、悩みに悩んで追い込まれて掃除の大切さに気付いたとき自分の中で掃除の意味がスッと入って来ました。
もう古いかもしれませんがトイレの神様が僕に舞い降りて来たんですよ。
僕は『味や店の雰囲気、サービスの質で他の店に負けたなら悔しいけど今は力不足やと諦めるしかない。でもトイレが汚い、席が汚いなんていう理由で満足いただけないのは明らかに自分の怠慢や!そんなことで帰ってもらいたくない!』って心の底から思うようになりました。
それから従業員にも積極的に掃除をしてもらうようにしました。
僕自身は8年間、誰にも任せることなく自分で毎日、トイレ掃除をするようになりました。
26歳で掃除の本当の大切さ気付けたのは有り難かったですね。
とにもかくにもなにかを考えて動きもがきまくってるとお店にお客様が来てくれるようになりました。
まぁそれでも自分のお給料なんてものはほんと雀の涙ほど。バイトしてたほうがまだ稼げたんじゃねぇ?みたいな金額でしたけど少しずつ自分がやってることが成果として売上に繋がっていく感覚がとても楽しかったです。
誰でもわかる。飲食店の始め方。祝開店!プレオープンイベント。
ついについにOPENを迎えた僕のお店『カフェ仁音(ジオン)』。
ちなみにお店の名前の由来は自分の名前から『仁』を取りました。
この【仁】という字は儒教と言う昔からある宗教の孔子さんという方がもっとも大事だとおっしゃった言葉。
他にも旧5000円札のメガネのおじさんで有名な新渡戸稲造も著書『武士論』で【仁】を推しています。
簡単にいうと【仁】=【人を思いやる心】
まさにアットホームを目指していた自分のお店にとってこれ以上ない漢字だったわけです。
ジンなんとか。。。ジンなん。。。ジオン。。。にしよう。って。じゃあ音って言う字にしとくか。音に至ってはほんとに適当。正直、なんの意味もないただの当て字でした。笑
まぁ皆さんもお店を開業したら絶対に屋号ってのは考えないといけないのでやっぱり多少の思いを込めて名前をつけるのもいいと思うんですよね。それがめんどうな人は○○屋みたいなのも僕は割りと好きですけどね。
さて本題に入ります。
実はオープン前の2010年4月23日にお世話になった方々や知り合い、業者さんなんかを集めプレオープンパーティーをやりました。
23日時点でもまだまだ開店準備が間に合わずかなりバタバタ。友達を動員してメニューも色々お出しするところまでいかずに数品を用意してセルフでどうぞスタイル。とにかくお酒さえ切らさなかったらなんとかなるやろうってな感じで開始しました。
いや~楽しかったですね。座席が20席くらいしかないもんだから入れなくて帰ってもらった人もいたんですがほんともう寿司詰め状態。友達、元会社の方々、業者さん。友達が友達を連れてきてくださったりと大賑わい。
皆さんから送られる花束がもうどこにおいたらええの!?っていうぐらい殺到し、まるでいいとものテレフォンショッキング並。会場に入りきらないから廊下にもあります~!みたいな状態でした。笑
みんながすごいね~!!いいお店だね~!!絶対、通うわ~!!なんて言葉をかけてくれ中には僕の携帯番号を教えてほしいという女の子も現れたりと、もうほんと
ザ・有頂天
(笑)
そりゃなりますよ。だって26歳ですよ。いいじゃないですか一生に何回もないんだからこんな有頂天になれること。
楽しいプレオープンは翌朝の5時まで続きまして延べ100人くらいの人が来てくださりました。
本オープンの4月26日は朝からバタバタ。
一番最初のお客さんはなんと仁音の前の割烹屋の元店主さんでした。工事しているときから気になってたんですって。そんな出会いもあるんやなぁと楽しめましたね。
他にもご近所の住人の方々やお勤めの方々が来てくださいました。夜はまたもや知り合いがたくさん押し寄せてくれてとにかく楽しかったですね。
オープンに関してはそりゃめちゃくちゃしんどかったですがナチュラルハイってやつですかね。半年くらいは無休で16時間とか働き続けれましたね。笑
しかし、オープンからしばらくしていろんな事件が勃発するんです。
このへんは次回以降にたくさん書いていきますね。
誰でもわかる!飲食店の始め方。開業準備編。
さぁいよいよ物件も決まって開業準備に取り掛かるぞ~!!
2009年12月に契約を結び2010年1月から晴れて自分のお店を取得しました。
このへんでコンセプトなんかのことにも触れておこうと思います。
当時のメモなんかを見ていると『ヒトとヒトが繋がれる場所』『家、職場(学校)につぐもうひとつの場所』『もうひとつの家』なんて書いてあります。
とにかくアットホームなお店というのを絶対的なコンセプトとしていました。
仕事帰りに家に帰ってきてご飯を食べるような感覚でこれるお店。
休みの日に仲良しの友達や家族でふらっと遊びにこれるお店。
思いとしてはそれくらいですかね~。笑
なのでぎちぎちにコンセプトを決めずに軽い感じではじめました。
後は客単価とかメニューとかそのへんは色々と考えていましたね。
一日にお店の前をどれくらいのヒトが通るのか調べてみたり、地域のイベントだったり色々と調査もしました。
自分なりには色々と考えてやっていたつもりなんですがけっこう反対意見も多かったのが正直なところ。だって25歳ですからね。みんなヤイヤイ言いたくなるわけ。そんなんじゃダメだ!とかもっとこうしろ!とか。ほんと誰がオーナーなのかわからないくらいに。まぁ今にして思えば自分が甘かったのはわかります。でも今の自分はあんなふうに否定ばっかりはしませんけどね。
一番反対意見が大多数を占めたのがお店のスタイル。
僕のお店は靴を脱いでもらう土足禁止のお店。
座席スペースもかなり広々と取った。しかもカフェなので客単価もしれている。
もうね。儲けれる飲食ビジネスの真反対のことをやっている。これには飲食の先輩には散々、言われました。笑
でもね~。勝算があったんです。だって大阪なんて腐るほどカフェあるし、僕らみたいな小さな個人店がよそとおんなじことしてても勝てっこないんですよね。だから他がやっていないことをやろうと。天王寺ではこんな店、当時なかったんじゃないでしょうかね。笑
あともうひとつ。
最初から看板メニューと言われるものは作らなかった。それについても散々、ダメだと言われてきたが自分が無理矢理これだ!!っていうメニューを作るのはなんか違うなーとなんとなく思ってて看板メニューなんてのはお客さんが育ててくれるもんだろう!!と言う思いでした。
しかし、ここはやはり先人たちの教えはちゃんと聞いたほうがよかったですね。笑
ビジネスと考えた場合、やっぱり推しのメニューってやっぱりいるんですよ。お客さんにもコレは絶対食べてください!と言えるメニューが。メディアだってそうです。開業間もないときなんかは情報をキャッチして色々なメディアが取材に来てくれました。そんときにお店の看板メニューは!?なんて聞かれるんですよね。そういうときのために看板メニュー作っておいたほうがいいですよ。後々、僕も作りましたから。笑
そんな感じで開店ギリギリまで色々と意見を頂いていましたね。もちろん開業してからも。
そんな中、まず最初の事件が起こる。
開業日を2010年4月26日と決めていたのだが料理人がお店の開業に間に合わないといいだしたのだ。
僕はあくまでカフェの経営者&ドリンクを担当する計画で、お料理に関してはかねてから地元の友人にお願いしていたのだ。彼は老舗の洋食屋さんで修行していたのだが洋食屋さんが人材不足だということで辞めるのに1年はかかると言い出したのだ。
これはヤバい。
ここから交渉が始まった。
僕:『どういうことだ!ちゃんと経過も報告していたし、土壇場でそれはないだろう!』と。
彼もお店にがんばって交渉を続けてくれていたのだが洋食屋のオーナーはなかなか首を縦に振ってくれないらしい。確かにお世話になったお店なので義理を通したいのはわかる。僕も実際、サラリーマンを辞めるときは1年かかった。
そんな感じで交渉がもつれていたので、彼も自分がお店に立つまでの空家賃は自分が払う!と言ってくる。それぐらい僕と一緒に始める新しいお店でチャレンジしたい気持ちは痛いほど伝わってきた。
僕:『そんな金はいらん!無駄な金を使う必要ないやろ!とにかく交渉してくれ!』
とそこに頼るしかなかった。もはや祈りに近かった。笑
結局、彼のご両親が洋食屋さんに出向き、お話をして3月いっぱいで洋食屋さんを退職できることになったのだ。
結果的には2010年4月のオープンには間に合って僕もめちゃくちゃ助かったのだが、25歳にもなって会社を辞めるのに親が出てくるとは。。。情けない!!とそのとき、めちゃくちゃ説教した記憶があります。
あとはなんだか文化祭みたいなノリでの店内DIY。とにかくハイテンションな音楽をガンガン鳴らして。笑
自分で和式トイレぶっ壊してたら水道管を折ってしまい、水が噴水のように噴き出してもう大慌て。
壁のペンキ塗りしながらあまりの疲労で寝てしまい起きたら刷毛が髪の毛にべったりくっいて自分で散髪。
100キロほどある冷蔵庫を自分たちだけで運搬の結果、腰が爆発。佐川男子スゲー!
トイレの換気扇、外に空気を排出する換気扇つけないといけないのに外の空気を中に入れる換気扇をつけててずっと臭いままだったり。
そんな感じでとにかく楽しくあーでもないこーでもないとお店作りを進めていました。
テンションあがりすぎてお店で何日も泊まったりもして。もう愛しかなかった。笑
他にも、おそらく飲食店を開業する人で誰も得意だという人は聞いたことがないアレも当然、僕の仕事だ。
事務手続きだ。
1、所管の保健所への営業許可届出の提出。
これは飲食店を営業するのに必須。現地調査では厨房の設備にも基準があってコレがいる、アレがいるなどとにかく保健所の規定をクリアーしなければ許可証をもらうことはできないのだ。
2、税務署への開業届け、給与支払い事務所開設の届け。
この開業届けというものは別に提出しなくても大丈夫です。笑
出してないフリーランスのヒトもたくさんいらっしゃいましたし、これをすることでなにかお金的に得をするとか損をするとかいうものでもなさそうです。
ただ私が感じたメリットは2つ。
税理士によるの無料記帳指導が受けれます。新たしく開業した事業者には所管の税務署に登録されている税理士が数回にわたって帳簿のつけ方や確定申告の仕方を教えに来てくれるというメリットがあります。
もうひとつは確定申告の際、青色申告できるという点。
最大65万円の控除を受けれるのでこれを利用しない手はないです。
例えば、なんにもしないと100万円に税率がかけられて税金が決定、納税することになるんですがこの65万控除を使うと100万-65万=35万に税率がかかるという仕組みです。めちゃくちゃイイ制度なので利用しない手はないですよ!
もうひとつの給与支払い事務所開設届け。
これは読んで字のごとく、従業員に給与を支払うんであれば届け出を出しなさいっていう書類です。なのでひとりで商売される方は出さなくて大丈夫。源泉徴収して、所得税を税務署に納めますよ~っていう宣言書みたいな感覚ですね。
食品衛生管理責任者の資格取得。
これも必須。丸1日、講師による食品衛生などの話を聞けば誰でももらえる資格なので余裕です。笑
あと僕は近畿社会保険指導協会なるものに労働保険のお願いしたりしましたね。
従業員を雇っていると強制的に加入しないといけないのが労働保険。
労災保険と雇用保険の2つがありますが仕事中に怪我したら労災使って医療費を支払えるのが労災保険。仕事を辞めて次の仕事が決まるまでお金を出しますよ~ってのが雇用保険。そのぐらいの認識しかありませんでしたがなんとかやっていました。笑
ふぅ~この事務手続きの話ってどう考えてもおもしろく書けないので全然、ブログを書く手が動きませんでした。笑
そんな感じで約3ヶ月の準備期間を経て、
2010年4月26日に僕のお店『カフェ仁音』はオープンしました。
ちなみにこの日は僕の26歳の誕生日。
20歳のとき思い描いてた妄想がようやく形になり、第一歩を踏み出せた瞬間でした。
さぁ次からはいよいよ実体験に基づいた商売のお話なんかを交えてブログを書いていきますのでどうぞ引き続きご愛読のほどよろしくお願いします。
誰でもわかる!飲食店の始め方。ここに決めた編。
強烈な先制パンチをお見舞いされた。
ここから話を始めていこうと思います。
不動産屋の秘蔵のおすすめ物件の見学に行きました。意気揚々と物件にたどりついたんですが。。。僕と不動産屋さんはもちろんだが。。。もう1人いる。
ん??このもう1人は!?というか誰!?笑
その正体はこのビルの1階でご商売されている結納屋さんの女将さんだった。
年は60歳オーバーだがさすが結納屋さんの女将さん。きれいな奥さんだった。
不動産屋さんの説明を聞くとどうやらこのビル自体がこの結納屋さんの自社ビルで1階部分で結納のご商売されているとのこと。要はこのお女将さんがビルのオーナーだ。なぜこ人がいるかというと自らやってきて査定しに来たのだ。僕を。
店内は非常に綺麗な状態だった。
なんでも30年近く、腕のいい日本料理店が入っていたのだが時代の流れとともに閉店。その後、うどん屋さんがこの場所を気に入って30年の営業でボロボロになった店内を500万ほどかけてリフォームした。
しかし、そのうどん屋さんは不幸にも一度も営業することなく閉店したという。
このへんの理由は後々、聞くことになるのだが、と~っても闇の深い話なので少しおいておこう。
とにかくリフォームしたのに一度も使われていないからとにかく綺麗。うどん屋さんだから当然、和風チックな内装だったがそこはなんとかなりそう。水周りなどの厨房設備も残ったまま。これは後々、譲渡契約を前うどん屋オーナーと結び、格安で譲り受けることになる。
トイレが和式だったのでこれは改装しよう!
純和風の壁紙をオシャレな壁紙に変えよう!
床板は木のほうがいいから張り替えよう!
椅子やテーブルなんかもオシャレなものに!
後はいろいろインテリアをそろえよう!
など多少の造作は必要だったが今すぐにでも営業できそうな店内。しかも綺麗。
こんな幸運は絶対にめぐってこない。
僕はひとめで気に入った。
ここにいいですね!!僕、ここでお店がしたいです!!なんて盛り上がりながら不動産屋さんと話していると
『ちょっといい??』
と今まで沈黙を決め込んでいた女将さんが口を開いたのでした。
『いったいどんな飲食店を考えているの!?』
『若そうだけど経験はあるの!?』
と質問が飛んできました。僕も
『業種はカフェで飲食経験は2年ほどです!』
『夜の営業もやりたいのでゆくゆくは朝まで営業したいです!』
なんて応えてたんですがさらにさらに
『事業計画はできてるの!?』
『お店のコンセプトは!?』
『運転資金は確保できてるの!?』
などなどめちゃくちゃ聞いてくるんです。
こんな質問までしてくるもんなんかなぁ。。。と疑問に思いながらも受け答えしてたんですが僕のほうもどうも言葉に詰まるというかそこまで考え切れてない部分も突っ込まれてしまいモゴモゴ。。。
『そんなんではダメ!貸すことはできないわ!』
と言われてしまいます。
見事なほどの強烈な右フックを食らってKO負けでした。
不動産屋さんと物件を後にして、帰路の途中、話をしました。
僕『普通にあんなことまで聞いてくるもんなんですか?』
不動産屋『いやあんなことまで根掘り葉掘り聞いてくるオーナーさん珍しいですよ。』
僕『ですよね~。これってもう貸してくれない流れなんですかね?』
不動産屋『どうでしょうか。もう一度チャレンジしてみましょうか。』
僕『是非、お願いしたいです!』
みたいな会話をしながら帰ったのを覚えています。
若かった僕はなんで物件借りるのにこんなことまでやらないといけないんだ!!とふてくされながら質問されたことを思い出し、もう一度考え、自分の言葉で説明できるように準備しました。今、思えば本当にありがたいアドバイス、忠告を頂いたんだと思います。
そしてリベンジ。
もう一度、女将さんに会いにいき1時間くらいでしょうか。話をしてようやく了承を頂きました。
この女将さん、後に僕にとっては欠かすことの出来ない第二の母とも呼べる存在になります。何度も何度もピンチを助けてくださる超面倒見のイイ最高のお母さんになる方です。僕の飲食店の始め方ブログにたびたび登場するのでここで女将さんからいつもの呼び方に変えておこうと思います。
女将さん→加藤さんです。
実はこのリベンジの面談のときからすでに加藤さんは僕の見方になってくれていました。
結納屋さんの社長や専務は僕のような若造が入ってくることを猛反対していたそうです。どこの馬の骨かもわからない若造を入れてなにか問題があったらどうするんだ!しかも朝まで営業なんてされたらご近所にも迷惑がかかる!絶対反対だ!!!みたいな感じだったそう。笑
しかし加藤さんだけがこのビルも変わらないとダメ!若者に入ってもらって活気を取り戻さないとどんどん廃れていくだけ!!何かあったら私が責任をとる!!とまで言って経営陣の反対を押し切ってくださったみたいです。
ほんとそんなこと聞いたら嬉しくなって泣いてしまうでしょ。
2回しか会ってない僕のためにこんな戦いをしてくれていたなんて。
物件取得はここから猛スピードで進んでいき、無事に契約書に判子を押すところまでスムーズにいきました。2010年の1月に無事に物件を取得しました。
もう僕なんてこんな契約書とか交わすの初めてだからわざわざスーツを引っ張り出してきて挑んだんですよ。笑
今思えば本当に初々しかったなぁと思いますね。笑
ここに開業までの資金を書いておきますのでご参考に。
保証金:40万
敷金:30万
礼金:30万
内装工事費:150万
什器:200万
インテリア:50万
合計 500万
これが僕が経営していたお店のイニシャルコスト。
居抜きの綺麗な物件とはいえ500万くらいはざっくりかかってしまうんです。
ここに当面の運転資金が100万ほど。飲食店開業ってほんとにお金がかかるんですよね。
さて。ここに決めた編のまとめです。
僕もいろんな物件見に行きましたが気に入った物件って本当に少ないんですよね。
土地、家賃、周りの環境、階数、面積、形などなどこだわり出したらキリがありません。
その中で気に入る物件って1番目にめぐり合うかもしれないし、10番目にめぐり合うかもしれない。こんなのはもう運命に任せるしかないんですね。
初めての出店でめちゃくちゃビビると思うんです。
だってこの場所が自分の城になるんですから。
店舗物件を探すのに慎重になるのも大事ですがここだ!!って自分が感じたのなら直感を信じてあきらめずにトライしてほしいですね。
僕みたいに意外な人の面談なんかもありますので心してかかってくださいね。笑
次回は開店準備編。これも色々と珍事がありましたので書いていきますね。
誰でもわかる!飲食店の始め方。物件探し編。
堀江のお店moutonで働きながら、僕は自分のお店のために店舗物件リサーチもけっこう進めていました。
だってそのときは見つかったらすぐにでも開業しようと思っていましたからね。
ほんとただの素人が何言うてんねんって思いますよね。笑
ただ今になって思うのはmoutonでの2年間があったことはほんとにありがたかった。経験値、ノウハウ、飲食人としてのあり方など多くを勉強させてもらいましたから。
とはいえまぁmoutonで働きながらだとなかなか本腰入れては探せなかったのでネットでちょくちょくみてたまに不動産屋行って話聞いたりもしてたんですがけっこうダークな対応されたりなんかもしました。
僕:『飲食店やりたいんですけどなんかいい物件あります~』みたいな感じで聞く
店員:『お兄さんが借りるんですか?』『保証人とかも要りますが大丈夫ですか。』とかいう反応。
それでもめげずに
僕:『この辺で家賃はこれくらいで』なんて聞いても超ネガティブな対応。
店員『今はありませんね~』
とか普通に言うてくるんですよね。5つくらいエリア言うてるのにない!なんていう反応あります?なくても探します!みたいな反応できると思うんですけどね。笑
まぁ確かに、26歳で家すら1人で借りたことなかったんで不動産用語とかわかんないわけですよ。敷金と礼金なんかもまったくわからず、それなんですか?レベルでしたから僕も悪いとは思うんですけどね。笑
それにしてももう少し愛のある対応をしてほしかったです。笑
そんなこんなでmoutonでの修行生活が2年を迎えようとしていた頃、ちょうど2009年の年末にある物件に出会うことになりました。
その頃には自分の意思もしっかりときまっていて出店場所は大阪の『天王寺』という場所にしようと。
なぜ天王寺なのかというと僕は昔から近鉄沿線利用者でした。都会へ遊びに出るには富田林から近鉄電車に乗って天王寺まで約40分。そこから地下鉄、今でいう大阪メトロに乗り換えて心斎橋や堀江なんかに遊びにいってたんですがこの天王寺という駅。大阪では梅田を擁するキタエリア、心斎橋・なんばを擁するミナミエリアの次にくる第三の発展都市なんです。それなりには色々とあるんですが僕らみたいな若者が集まる場所がなかった。いやあったのかもしれませんがキタやミナミのほうが圧倒的に魅力的な店が多かった。
2009年当時の天王寺はというとシンボルの近鉄百貨店。まだ日本一高いビルあべのハルカスが建っていませんでした。
そしてその周辺には近鉄やJRの商業施設が立ち並んでいましたが少し他に目をやれば段ボール、ブルーシートで作られた浮浪者の住まいがたくさんあったり、おそらく不法滞在であろうアジア系の売春婦たちが白昼堂々、売春を行うような場所でした。戦後にたてられた古びた商店街はシャッター通りとなり、お世辞にもオシャレとは言いがたい今と昔が混在したような不思議な場所でした。ある意味それが天王寺の良さだったのかもしれませんが。
とにかくまだまだこれから発展する余地のあるエリアだった。
そういうことも考慮に入れて、この天王寺に僕らみたいな若者が集まれるお店を開きたい!という思いを持っていました。
なので天王寺周辺の不動産屋さんには色々顔を出してたんです。
相変わらず家も借りることもなかったド素人の僕でしたが1件だけ丁寧に店舗の賃貸借について教えてくれる営業マンに出会ったのが大きかった。
僕より1つ歳上。今で言うと漫才師ミキのお兄ちゃんの方に似ている人でしたね。お店は天王寺駅前にある『シティホーム』さん。この丁寧な接客がきっかけでその後、家を借りるときも、知り合いに不動産屋を紹介するときも決まってシティホームさんを愛用することになりました。笑
その営業マンが持ってきてくれたのがまだ公に応募に出していない物件でした。
天王寺なんですが北側。天王寺のわりと栄えているエリアというのは南側だったんですね。BEAMSやSHIPS、TSUTAYAや無印良品、STARBUCKSなんかもありました。
北側には聖徳太子が建てたという歴史がありすぎるほどの四天王寺、建築家の住職が自分で設計を手掛ける一心寺、他にも真田幸村が死んだと言われる安居神社などとにかく寺や神社が多い。そう天王寺の北側は線香の匂いに包まれたエリアと言っても過言ではない。そんな線香エリアで道行く人はもちろん若者なんて全然いなくてほぼお爺ちゃん&お婆ちゃん。お参りやお散歩してる感じですね。
駅からお寺までの参道に商店街もあるんですがテナントも書道用品屋や花屋、整骨院、昆布屋、昭和の喫茶、宝石屋など見事に高齢者ターゲットのお店ばかり。しかも創業50年とかいう老舗店多数。
その商店街の中にあるこれまた昨今ではなかなか聞くことがない結納専門店が1階にある雑居ビルの地下の空き店舗だった。なんとこの結納屋さん、創業は江戸時代。スゴすぎ(笑)
そんな場所。天王寺の北側の結納屋の地下の物件を不動産屋の営業マンに連れられて初めて見に行きました。
そこで僕はいきなりの先制パンチをお見舞いされるのでした。笑
つづく。
誰でもわかる!飲食店の始め方。武者修行編。
飲食店がしたい。
そう思った私は会社を24歳で会社を辞め、飲食の世界へ飛び込みました。
具体的にはどうしたかってのを今から書き込んでいきますね。なかなかこんなことまで書いてるブログはないと思います。参考にしてもらえればええかなぁと思います。
働きたい場所はもう決まってました。『堀江』です。前にも書きましたが当時、大阪のオシャレがここにあったというても過言ではないくらい人気があったからです。
しかし、堀江には大手飲食店はほとんどなく、どちらかというと個人店や数店舗経営している中小企業が多い印象でした。
僕は2パターンの攻略法を考える。
1、求人情報をネットで検索しまくって応募する。
これはなかなかいい求人情報が載っていなかった。今思えばわかる。当時でもネットの求人に出そうと思えば数万円の費用がかかる。堀江にある個人店にその費用を継続的に捻出する資金はなかなかない。
なので2つ目のパターンで攻めることにした。
2、履歴書を片手に気になるお店に突撃、面接をお願いする。
当然、募集している募集していないなんかは関係なし、とにかく気に入ったお店を片っ端からあたる。
A店
僕:『失礼します!今って従業員募集していますか?』
店員:『いえ間に合ってます』
B店
僕『失礼します!調理師になりたいんですが雇ってもらえますか?』
店員:『24歳で調理学校も出てないのに無理だよ。無理。』
なんてやりとりが何度も続く。
今、考えればそうだわな。個人経営のお店なんてのは従業員も雇ってないところも多いし、少数精鋭でまわしてるところがほとんどなので過剰に人数なんて雇えるわけない。しかも飲食経験なし!というただの素人が料理をさせてくれ!!なんて言うてるからね。
こんなのもありました。
僕が大好きなお店に面接にいったとき、めちゃくちゃオシャレなおじさんが面接してくれてここで働きたい!!ここの料理を速攻でマスターするのでお願いします!などなど僕の熱い思いを伝えに伝えたんですが突然、
おじさん:『君どこの服好きなの?』
僕:『エディフィスですかね』
おじさん:『君、身長そこそこあるよね。ちょっと店内歩いてみてくれる?』
僕:『スタスタスタ・・・。クルッ・・・。スタスタスタ・・・。』
僕:『(いったいその質問とこのウォーキングになんの意味があるんだ。。。)』
おじさん『ホールスタッフなら雇う!調理は今はいっぱいだ!』
僕:『お断りします!!!』
大好きなお店だったし、めちゃくちゃ魅力的でしたが僕には時間がなかった。決してホールの仕事を軽んじていたわけではないけれど今の僕には何より先に料理の実践を積むことが先決だったので即答できた。あのころはほんと迷いがなかったですね。
気に入った、厳選した飲食店ばかりで面接を受けていたんですがなかなか受からない。
なかなか決まらんもんやねんなぁと思案していたとき、電話でアポイントを取っていたお店から連絡が入った。
場所は堀江のなかでも閑静な北堀江という場所。
夜に一度だけコーヒーを飲みに行ったことがあったのだがスーツ姿の店員さんでザ・大人の雰囲気。お金持ちそうなお客さんがたくさんいるような感じの印象のお店だった。
『mouton』
ムートンという店名で昼はカフェ、夜は本格的なイタリアン。この店を含め3店舗を展開する中小企業だった。
moutonという店名の由来は世界5大シャトー『シャトー・ムートン・ロートシルト』から来ている。
なんでもオーナーが生まれて初めてムートンを飲んだ時、涙を流すほど美味しかったことからmoutonという店名になったらしい。moutonなのに本格的なイタリアンというのもなんかよくわからんところもあるが、1本数十万もするめちゃくちゃ高いワインなので頑張って頑張って働いてやっとの思いで飲んだワインだったんだろう。こういうエピソードは割と好きなほうなので店名の由来もしっくりくる。
面接に現れたのは30代半ば、少々、恰幅がよくとても愛嬌のある笑顔をするシェフだった。料理人一筋でイタリアでの修行経験もあり、まさに料理を習うにはピッタリの人だった。
面接時に出した僕の条件はこうだ。
1、料理人として雇ってもらうこと。
これは絶対にブレてはいけない。
2、お店を経営したいのでいろんなことをさせてもらえること。
料理スキルは絶対にはずせないのだがやはり経営に関することも学ばないといけないので数字だったり、業者だったり、店舗運営に関するいろんなことをさせてもらいたかった。
3、イイ店舗物件が見つかったら即、辞めさせてもらいたい。
今、考えたらこんなこと言わなくてよかったのにと思うんですが僕は義理堅い人間なので嘘はつきたくなかった。飲食店で仕事しながらも不動産屋にいってイイ物件があれば即、起業しようとしていましたから。
この条件を突きつけた後、シェフから
『じゃあ明日から来てくれ!』
と言われました。採用決定!!
いや~。今になって思うのはよくもまぁこんなわがままな条件を出してくる飲食初心者を雇ってくれたなぁと思いますよね(笑)だって実力ないのにえらそうなことばっかいうてるただの若造ですからね。ほんと心の広いシェフじゃないと絶対に採用されてなかったな。
ということで僕の飲食店修行がスタートしました。
まずはランチの担当になったので先輩やシェフの横について必死に覚える。ランチ時は100食とか売るお店だったので大忙し、キッチンスタッフ、ホールスタッフに怒号を浴びせられながらもとにかく必死に働きました。家に帰っては教わった仕込みの手順を確認したり、見おう見まねで料理を作ったり、休みの日は図書館に行ってイタリア料理やデザートについて調べたり。とにかく毎日、毎日、料理のことだけ考えて生きていましたね。
もう究極はシェフが何回かき混ぜたとか、何回鍋をゆすったとかまでもメモして動きを反復練習してました(笑)
でもねそこまでやってると周りの反応も変わってきてやらせてもらえる仕事もどんどん増えてきました。パスタを作ったり、お肉を焼いたり。今になって思えばけっこうなスピードでいろんなことを教えてもらえてました。
半年後には『ホール』もやってみたらと。スーツを着てお客様をご案内したり、お料理をサーブしたり、カウンターでカクテルを作ったり、ワインの説明をしてみたり。もちろんここでもめちゃくちゃ練習しました。お皿の持ち方、カトラリーの使い方、シェイカーを買って生米を入れてリズミカルに音が出せるように鏡の前で振ったり、ワインの薀蓄を脳みそに叩き込んだり。。。などなど技術はもちろんですがホールに出てみるとあぁなるほどな。ホールの仕事ってめちゃくちゃ大事やんってこのとき初めてわかりましたね。お客様はもちろん、キッチンスタッフも楽しくさせないといけない。店のムードメーカーそのものでした。だから同じお店なのにホールスタッフが変わるだけでお客様の違うし、その日の店の雰囲気も全然違う。ここから接客の楽しさに目覚めました。
そして、いろんな人がいるんだってここのホールをして知ったことも大きな収穫でした。
エピソードをあげたら数えきれないんですがひとつだけご紹介。
ある日の日曜日、14時くらいだったかなとにかくランチタイムも少し落ち着いたころ店の前の道路に黒い影が。。。歩道にまったく寄せることもなく道のど真ん中に黒の外車が2台止まり、そのまま駐車。ほんとワイルド。まるでここだけアメリカの道路です。
出てきたのは常連の893さんです。
親分が若い衆を3人ほど引き連れていらっしゃいました。周りの3人はめちゃくちゃ怖面。ほんと誰が見てもその筋の人だとわかるくらいの。でも親分はとっても気さくな方で『よー久しぶりやなー』なんて声をかけてくださるほど。
スタッフが席にご案内すると親分ともう1人が席に座り、残りの2人は入口で待機。いや見張っていると言ったほうが正しいですね。(おーこれが親分の食事だ。)
席に着かれた親分がサラダを注文されたのですが『鉄分摂ったらあかんと医者に言われとるからサラダを茹でてくれ!』と。
僕はその時キッチンにいましたから『サラダを茹でる?』シェフと顔を見合わせながらサニーレタスやらサラダほうれん草やらトレビスなんかをとにかくお湯で茹でました。
するとどうでしょう。本来なら溢れんばかりのモリモリサラダがお皿から2ミリくらいの高さになってしまいました。これはお皿に乗っているというよりはお皿にぴったりと張り付いているくらいのイメージでしょうか。
シェフ『。。。こういうことやんな?』
僕『はい。。。茹でるとはこういうことですね。。。』
シェフ&僕は無言のままその得体のしれないお皿に張り付いた緑のものに塩分もダメだというのでオリーブオイルをかけ、ホールマネージャーに渡しました。
マネージャー『。。。これなんですか』
シェフ『茹でサラダ。』
マネージャー『。。。これ正解のやつですか?』
シェフ『これが茹でサラダ。』
マネージャー『。。。これ持っていって大丈夫なやつですか?』
そりゃそうだ。お皿一面の緑に油だもん。
もうね。笑ったらダメなんですけど堪えられない。マネージャーがお皿持って必死に訴えてくるんですもん。『絶対ダメですって!これはあかんやつですやん!』って魚みたいに口をパクパク怯えながら(笑)
もうね。シェフも半分笑ってるんですよ。でもマネージャーだけは必死。
言うまでもなく僕だったら絶対、持っていけません(笑)
そこからあまりにもしつこくマネージャーが食い下がるのでサニーレタスを2枚ほど追加で茹でて乗せました。0.5ミリくらい高さが出ましたね(笑)
キッチンとしてはできることはやりました。もう後にも引けないマネージャーがその茹でサラダを持っていきました。
するとどうでしょう。
若い衆:『なんやこれぇぇぇ!?これがサラダかぁぁぁ!?』
もうね。誰でもわかる!みんなが知ってるとはこういうことを言うんですね。
これしかない!!という回答がかえってきました。
後ろ姿しか見えなかったですがもうね、マネージャーが小鹿のように震えてるの。
たぶん、少しちびってましたね。
どないするんやろ?マネージャー。。。キッチンに返されてもどうしようもないで。と思ってると
親分:『おーこれこれ!!ありがとうな。』
と言って茹でサラダをパクパク食べ始めました。
九死に一生を得るということはこういうことを言うんですね。
飲食店のエピソードはほんとにいろんなことがあって楽しいです!
他にも簡単な経理の仕方や業者さんとの顔つなぎなんかもしてもらいましたね。
まぁでもとにかく働きまくった。
朝10時から夜24時まで1日14時間。長いときは19時間とか働いてたなぁ。今じゃ完全アウト。当時も大手ならアウトだったのかな(笑)でも全然、疲れなかった。若かったってのもあると思うけど毎日が楽しくて楽しくて。
ただ1点だけ辛いこともあった。それはお金だ。
貯金は絶対に崩せない。しかし、お店からの給料はほんとに少なかった。こんなエピソードがある。
シェフ:『年末調整するから前の会社の源泉徴収もってきてくれる?』
後日
僕:『持ってきました』と言われなにげなく渡したら
シェフ:『おまえ!こんなにもらってたのか。。。俺より多い。。。』
とにかく飲食業界は給料が低かった。
しかし、税金というやつは前年の所得から計算されるため会社員時代のそこそこイイ給料が課税対象となり、スズメの涙のような今の僕の給料にしては途方もない税金が押し寄せてきた。
これから何度も経験することになるんですがあの時が人生で初めて金の大切さと恐ろしさを知りましたね。
当時の彼女(今の奥さん)の誕生日にもプレゼントすら買ってあげれず、僕はゴメンな!と泣きながら2人でコンビニのショートケーキを食べてました。情けなかった。。。
とまぁこんなエピソードもありながら僕はこのお店で結局2年、お世話になりました。